池子
池子は逗子市の東北部に位置し、面積は437平方キロメートルで逗子市の40%を占めている市内最大の字である。
池子の中心の変わりよう
百年前の必要なものを収めた池子の案内図を描いたら小池子の谷戸入口(現逗子中学校入口)を中心にもってくるとぴったり収まったものとなっていた。現在の池子では、中心をアザリエの望洋公園に持ってくると収まるようである。
古くから開けたところで古東海道が通る
池子は逗子市内で最も古くから開けた土地で、古東海道として日本武尊の東征の道として使われたと伝えられている。
江戸時代の池子は、450石の石高で全村、水戸 徳川家縁の鎌倉扇ヶ谷 英勝寺(鎌倉唯一の尼寺)の支配下にあった関係から水戸 徳川家の紋所(立三葉葵)が随所に用いられている。
また、この地方では山と山との谷間を谷戸(やと)という。池子では大きな谷戸がいくつかあった。代表的な谷戸が逗子高校のある大上(おおがみ)の谷戸、逗子中学校のある谷戸を小池ヶ谷の谷戸。つぎが菅ヶ谷の谷戸である。現在の姿から想像出来ないが谷戸の一番奥は現在の池子小学校校門付近でアザリエ三期地区工事で埋め立てたところである。東逗子に至る市道(昭和36年開通)の谷戸を星ヶ谷の谷戸という。広地地区には廻り倉谷戸がる。
池子村の小字
星が谷(神武寺駅から第一アザリエ)・菅ヶ谷(池子駐在所から第二アザリエ)・舞台(逗子中学校から池子大池の米軍用地)・石の下(逗子中学校前の京急線路を越えた米軍住宅用地内)・八坂(米軍高層家族住宅)・仲川・笹ヶ谷・漆作(共同使用運動施設並びに場米軍住宅運動施設 休日診療所など)・さじきと(池子橋から消防署北分署)・廻り倉(逗子市運動公園前アザリエ下の谷戸)・馬渡り(東昌寺から池子十字路)の他、花の瀬・小池子・東大上・西大上・笹倉・阿弥陀ヶ谷・明ヶ谷など32の小字があった。
大蛇伝説
池子には六社明神(大上地区の氏神様)にちなむ大蛇伝説があり、東昌寺には、退治された大蛇の頭蓋骨があり、見ると祟りがおきるといわれ、けっして見てはならぬと代々伝えられた寺の秘宝となっている。
伝説のいわれは、大上の大池、小池子の摺鉢池、広地の廻り倉池の三つの大きな溜池を始め、中小の貯水池が随所に設けられていたと伝えられている。随所に伝えられている大蛇の話は、水を粗末に扱うとバチがあたるといわれているが共通する物語となっている。
池子の庄屋を勤めた家々
明治の初め池子には、14の苗字があった。そのうち4家が江戸時代庄屋(池子では名主のことを庄屋といった)を勤めていた。神明社と東昌寺の間にある石渡家(五郎右衛門源助)は、江戸時代初期に庄屋を勤めていた。名残の長屋門が残っている。
江戸中期、安永(1775)の頃から庄屋は二人制となり、相川家(孫右衛門)、林家(伝右衛門)、岡本家(右近、半左衛門)等が石渡家の他に交代でやっていた。
池子の旧跡
耳の神
JR横須賀線踏切脇、伊原自動車の隣にある社。耳のカミサマといわれている明治時代、桜山との境界にあったが線路が敷かれることによって分断され、今は池子分になっているが、もともとは桜山の講中により祭られていた。
金山さま
現在はフジ美容室の向側アザリエ坂道公園内に安置されている。もとは広池の金子氏の裏山にあった。豊臣氏の残党が後日を期して金銀財宝を埋めたという。
東昌寺と五輪塔(重要文化財)
東昌寺本堂の前に、国の重要文化財(建造物)に指定されている五輪塔が祀られています。この五輪塔は、かつて葉山町堀内の慶増院という真言宗の寺の墓地にあったものです。この寺は、後に高養寺と改名されました。
五輪塔は、安山岩製で、高さ141cmです。 また、地輪には「沙弥行心帰寂、乾元二年(1303)癸卯七月八日」の銘が刻まれています。鎌倉時代の武将の二階堂行然のの墓であろうと伝えられています。昭和51年に東昌寺に移転安置されました。
神明社
元々の池子鎮守と思われているが、池子の鎮守になり、名称が神明社になったのは百年程前の明治時代末で祭神は、「天照大神」である。それ以前は、同所には小字 馬渡地区の氏神である須賀社(素戔鳴尊)と三嶋社(大山祗神)があり、祀られていた。
江戸時代、池子の多数の神社は、皆 東昌寺が別当として管理していた。
明治時代の初め、廃仏毀釈運動は、やがて神仏分離と神道の統制が行われ、池子においても、それぞれが祀っていた氏神さまを廃止し、須賀社の場所に合祀という形で伊勢神宮の末社とされ、天照大神を祭神とする神明社と称されるようになった。
神輿渡御
7月の夏祭りには、木遣りや池子囃子が奉納される。神輿は、鎌倉英勝寺より頂いた須賀神社のもので、天保12年(1814) 製作の立派なものである。
境内中段の石塔群
碑の脇には小さな石塔が置かれているがこれは日本海軍に強制接収された、現米軍住宅地にあった八坂姥ヶ谷疱瘡(姥神)神、山ノ神、八坂、仲川の馬頭さま、石の下の浅間さまが安置されている。
明治十年会慰霊碑
中段にひときわ大きく立っている記念碑が明治十年会慰霊碑である。碑には建立の由来と明治10年当時、池子に居住していた72軒の当主の名前が刻まれている。毎年春に東昌寺住職導師により供養が営まれている。
境内中段の石塔群
碑の脇には小さな石塔が置かれているがこれは日本海軍に強制接収された、現米軍住宅地にあった八坂姥ヶ谷疱瘡(姥神)神、山ノ神、八坂、仲川の馬頭さま、石の下の浅間さまが安置されている。
浅間社
池子には二社あり、京急の神武寺駅側トンネル上を石の下の浅間さま(現在は神明社中段の石塔群の一隅に安置されている)お宮の脇アザリエへの道、石黒氏(通称やと)屋敷裏の山上を谷戸の浅間さまという。
浅間は「せんげん」と読み富士山浅間神社が総社である。
稲荷社
菅ヶ谷と星ヶ谷の境、市道脇にあり「福富稲荷」ともいう。星ヶ谷の旧家で講中を設け祭祀を行っており祭の時立てる幟には、「福當稲荷大明神」と昔から誌されている。なお、講中の各家ではそれぞれの屋敷内に稲荷分社を祀っている。
稲荷は弘法大師が京の鬼門除けとして伏見に勧請したのが我が国の祭始めとされている。
稲荷社境内には名木「石抱きの榎」がある。
白山社
菅ヶ谷の口元、池子石の小山(通称はくさんやま)に安置されている。
総社は加賀の白山権現である。
稲荷様の尾根石仏群
稲荷様と大神宮との中間地点にお不動様や縁結び神ならびに祠が六体ある。一部は金比羅山付近が石切り場であった当時安置されていたが(岡本伊八氏が祀っていた)旧海軍により接収対象にされた時現在地に移転している。何のために作られたか不明である。
大神宮
元は池子の総鎮守で、星ヶ谷の稲荷様の尾根(稲荷山という人あり)にあり、現在、石の祠が安置されている。正しくは「天照大神宮」といい、明治45年に現 須賀神社に移転合祀したとされている。
金比羅様
菅ヶ谷の谷戸の奥、神武寺へ至る尾根道上、丁度小池ヶ谷と菅ヶ谷の谷戸の間の尾根、通称「金比羅山」と称される地点にある。(池子小学校脇のアザリエ山下公園の上) 金比羅権現は四国の琴平を総社とする海上安全、大漁祈願の神で、海から目標になる高い地点に祀られている。
セエノカミ(サイノカミ?)
逗子中学校体育館裏の川原、正月の飾り物を焼いた場所。
お地蔵様と馬頭観音
弁天様
大池は昭和57年に老人福祉センター建設のため埋め立てられました。池の真ん中に祭れていた弁天様は、京浜急行線路側流出地点の岩に穴を穿ち、祠を設けあらためて勧進している。
注)写真提供:池子体育会